こんにちは!「ゴールは共感」がテーマなサッシ(@3104nkmr)です。
落ち込んだ友達の手を取って共に号泣するシーンをみると「友情っていいな〜」って思いますよね。
でも、「相手が悲しいと、自分もどこまでも悲しくなる」ことって、共感でしょうか?
今回は「悲しみ」に共感するコツのお話です。
「相手が悲しいと、自分もどこまでも悲しくなる」ことは共感か?
生きていると、いろいろな悲しみに会いますよね。
家族や友人の悲しみはもちろん、映画を観てても登場人物の姿に涙が止まらなくなってしまうこともあります。
じゃあ、相手が悲しいと自分も同じようにどこまでも悲しくなることって、果たして共感と言えるでしょうか?
答えは「No」。共感とは違います。
たしかに、誰かが悲しいと自分も悲しくなるのは、生き物として本能的な自然なものです。
ヒトには自分の周りの感情を受け取る能力があり、「ひとりの赤ちゃんが笑うと、他の子も笑い出す」という実例が分かりやすいですね。
いわゆる、「情動感染」とか「情動伝染」と言われる状態ですが、それは「相手をマネすることで状態を理解・学習しようとする」という、本能的に備わった能力だと言われています。
情動伝染をきっかけに入ってきた感情が、どれくらい深く、どれくらい長く続くかは、人の先天的・後天的な資質によります。
誰かが泣いてると、どうしても自分も悲しくなっちゃうなら、それはそれで仕方ないことですよね。
でも、それは「同感」ではあっても、「共感」ではありません。
なぜなら、フォーカスする先が、「今ここにいる相手の存在そのもの」でなく、「悲しみ自体」になっているからです。
「『わかるぅー!』は共感じゃない!?『共感とは何か?』その意味・本質を分かりやすく紹介します」の記事でまとめましたが、共感において大切なのは「相手が救われる」ということです。
「悲しみ」それ自体にずっとフォーカスしていては、共感の本質である「相手が救われること」にいつまでも到達できないんですね。
同じように悲しむこと自体は素晴らしいですが、一線を引くのが大事です。
例えば、誰かの涙をきっかけにあなたも泣き出したとします。しかし、あなたはすぐクルマに乗って出かけたとしたら、どうですか?
あなたがクルマの中で泣きじゃくっていても、相手はこれっぽっちも救われませんよね。
「悲しみ」自体に引きづられていては、相手の救いにはなりません。ただの負の連鎖になってしまいます。
あ、別にいわゆる「感受性豊かな人」を否定する意図は全くないですよ。共感の力をアップするために、共感の正体をハッキリさせたいだけです!
相手が悲しむ理由に同感である必要はない
「悲しみ」それ自体にズルズルと引きづられてしまう理由は、その人の性格・感受性に加えて、「相手と自分を同一視してしまう」ことが多いようですね。
残念ながら、それは共感には妨げになります。
なぜなら、共感はあくまで自分と相手が別の人間という前提があって成り立つものだからです。
言い換えれば、ポイントは「相手が悲しむ理由に同感である必要はない」ということです。
つまり、情緒たっぷりに表現すれば以下のような感じになります。
例えば、人気タレントの福山雅治さんの結婚が発表された時、それに絶望する女性ファンが続出する「福山ショック」という事件がありました。
でも、福山ショックのせいで食事が喉も通らない友人がいるとしても、彼女に共感するのにあなたも福山のファンである必要は無いんです。「よう分からんけど、悲しいんだね」と寄り添えるかが大切です。
相手と同じ価値観だったり、悲しみの理由に同感である必要は全くないんです。そうじゃないと、相手によって「共感できる/できない」を選ぶっていう発想になってしまいますからね。それは悲しい。
ただただ、相手を認めてあげてください。
相手とは別の存在として、相手の悲しい気持ちを認めること
「悲しみ」への共感のコツ。それは、一緒に悲しみ続けることではありません。
「別の人間として、ただ相手を認めること」です。
そのことで、相手の悲しみがちょっとでも楽になった状態。それがゴール=共感だと思います。
もちろん相手の悲しい気持ちが「分かる」ことは最重要です。でも、同じように悲しみに引きづられるのではなく、自分はしっかり一線を引いて、別の人間として寄り添うことで、初めて相手は救われるんじゃないでしょうか。
ちなみに、ズルズル引きづられるといえば、「共依存」も共感とは別物です。
「共依存」とは、例えばダメな男を世話する自分に存在価値を見出して、離れられなくなってしまう女性みたいな状態ですね。 負の情動感染と同じく、好ましくない状態です。
それは言うまでもなく、相手の気持ちが救われる「共感」じゃありません。
最後に:あんたと私は別物!悲しみがちょっとでも楽になることが「共感」
ポイントは「別の人間」です。
アンタにはアンタという価値がある。私には私という価値がある。そこを忘れずにいたいですね。
悲しんでいる「存在」そのものにそっと寄り添うことで、ちょっとでも相手の気持ちが楽になること。
それが悲しみへの共感だと思いますよ。